愛は静けさの中に

邦題(愛は静けさの中に)、原題(Children of a Lesser God)、という映画について少し。

この映画、邦題と原題の差異に違和感を覚える人も少なからずいるかもしれないのですが…。

だけど、静けさを単純に「音のない(聞こえない)世界」、と捉えてしまうのではなくって、静けさってつまりは「孤独」ってことでしょうか。

加えて、その種の「孤独」は自らの静寂な世界を(心を覗き込むと表面に浮かんでいるような見つけやすい孤独感みたいなものを)今までとは違った角度から意識してみることによって新たな認識が、ってことであれば、この邦題でもいいんじゃないかなって思います。

で、孤独さゆえに人を求める正直な気持ちが、「手探りでもって再認識できるかもしれないよ」、「手探りでもって見つけられるかもしれないよ」、といったあたりがこの映画のテーマなのかなぁって思ったのですよね。

ストーリーからそのあたりを少し探ってみると、ジェームズ(ウィリアム・ハート)とサラ(マーリー・マトリン)が別々になってしまう時があるんだけど…。
その時に、それまでお互いが個々に意識していた静寂な世界っていうものとは異なる静寂な世界の存在っていうのを知ることが出来たんだろうな、って。
それまで個々が抱いていた静寂っていう概念は、それぞれのバイアスが邪魔していて固定観念に縛られていたっていう感じかな?

ここでの静寂さっていうのは、端的に音があるとかないとかではなくって、自らの、或いは相手の、心の中にある孤独さ。
それも、普段は認知的無意識下にあっても、その表面(固定観念とか?)を取っ払えば浮かび上がってくるような孤独さ、っていうニュアンスでしょうか。

なので、この「愛は静けさの中に」(Children of a Lesser God)っていう映画は、心の内側の表層からわずかに透けて見え隠れしているようなココロの模様を見つめたり直面したりして迷子になってしまいそうな時に、ある種の希望を抱かせてくれるかもしれない可能性を秘めているかも、なんてことも思ったりもしました。

写真は深夜3時頃の小雨模様の代々木界隈の一片で、映画の話とはストレートには結びつかないのですけど、「静寂」とか「静けさ」っていう言葉に付随するイメージからすれば、さほどミスマッチではないんじゃないかな、ってことで。

MEMO
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