個性という概念に群れる没個性

ここ数ヶ月の間、mixiにはログインしていなかったのだけど、数日前、mixiによく出入りしている友だちから、とあるコミュで見かけたトピックのひとつのサマリを、メールで教えてもらいました。

それは、いわゆる「ゆとり教育」世代? だと思われる進学や就職をひかえた学生さんたちに、将来なりたい職業は、という名目でのアンケートを行った結果、上位10傑は音楽・芸能・クリエイター関係の職種で占められていたっていうような内容。

その結果を見ても、へぇ~そうなんだぁ、という類の感想しか持たなかったのですよね。
個性を尊重する「ゆとり教育」という謳い文句に対しては、以前からなんだかなぁって思っていたから、こういうアンケート結果を見聞してもさほど驚きはしなかったのです。

個性、個性、って周囲から言われていると、その個性っていう概念がカッコよく見えたり、大義名分のような位置付けとなって、普段そんなこと考えてもいない人たちにも個性という概念の表面への意識が高まっちゃって、取り残されるのはイヤだな、っていう程度の動機の人たちで群れる可能性もあるんじゃないかなって。

そういう背景ありきで、個性ってものを意識して群れていくと、う~ん、もう個性的じゃなくなっていて、没個性の集まりにもなりかねないんじゃないかな、と思うのですよね。
一種の流行り廃りたいな感じかな、こういう状況下での個性って言葉は、とも思ったり。

これは蛇足ですが、世間で求められている個性って…。
つまりは処世術のようなものなんじゃないかな、とも思えたりもするのですよね。

だって、あまりに個性的っていうか、世間の常識を大きく逸脱してしまったり、前例が見当たらなかったりすると、個性的だという判断が下されず(判断すらできないケースもあったりして)、単なる無謀とか、常軌を逸したコト・ヒト、って言われちゃうわけでしょ?

なので、「ゆとり教育」に限らず「教育」などが掲げる個性って、世間体が保たれる範囲の箱の中で、如何にして「個」のように見せるかっていう演出が求められているようなものだから、それってつまりは処世術とさして変わらないんじゃないのかな、って思っていたりしたのですよね。

処世術を磨こう、なんていう謳い文句よりは、個性を…っていうほうがなんとなく耳障りがいいですからね。