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で、「ゆとり教育」に付随している(していた?)と思われる「個性」ということについてちょこっとだけ触れてみたのですが…。
その後、なんとなくですが、じゃあ「個性」って何だろう? という疑問めいたことが少し頭をもたげてきました。
オンライン辞書を参照すると
【個性】
個人・個物を他の人・物から区別しうるような、固有の特性。パーソナリティー。
【個性的】
個性が顕著であるさま。独特なさま出典元:goo辞書
検索語:個性
と、まぁ、だいたいこんな感じです。
これを見てふと思ったのですが、てことはつまり、「個性」っていうのは一種のレッテルなのかな? ということ。と、
レッテルということは…う~ん、ステレオタイプがそこには加味されているのかもしれないな、ってことでした。
世間では人間を対象とした場合、差別は好ましくないと言われる傾向がありますよね。でも、「個性」って個を差別しないと成り立たないわけだから、このあたりかなり微妙なわけで。
つまり、多くの人、か、世間の人の最大公約数の印象で、わりと好ましい差別が「個性」ってことなのでしょうか?
なんだか都合よく差別が使われている節がありますが、ま、差別ということではなくって、「差異」(差異性)というふうに解釈するように教育されてきたの*かも*しれませんけどね。勿論、自身を含めてですけれど。
だって、人との区別とか、固有とか、独特なんていうのは、人が人を見下す場合の差別の理由にも成り得るわけでしょ?
でも、それが「個性」ということでの区別・固有・独特となると、差別ではなく好意的な差異と受け取るっていうか、受け入れるわけですよね。
だとするとですが、やっぱり世間で言われているような「個性」って、好ましい差別とか差異だというふうに受け入れられる土壌(換言するとイメージの最大公約数)があってこそ成り立つ気配も往々にしてあるので、そこには処世術らしき術が介在してくるっていうこともまんざら的外れではないかもしれないな、って。
そして、世間で「個性」だとか「個性的」というふうに呼ばれる時は、処世術やら裏での仕掛けみたいな要素は取っ払われたところで(まるでなかったかのように)、そのレッテルだけがクローズアップされているのでしょうけどね。と、同時に、レッテルを貼られた側も、それまで以上にあの手この手でそれが剥がれないように……ってところでしょうか。
少々うがった見方かもしれませんが、こういうのってなにも人の個性に限らずでしょうね。資本主義社会の中では。
なので、個性を大事にっていうフレーズが伴うことと、企業や個人が何かしらのスティタスを保持しようとする類の間には、それほど大きな違いがないっていうふうにも言えたりするのかな? とも思えたりもしますし。
でも、そういう見方って、本音の部分では、自身の勘違い及び見当はずれであってほしいなとは思っています。少数でもいいので、そうじゃないって思わせてほしいのです、ホントは。