オリジナリティとか著作権とか

下記の元々のネタはかれこれ10年ちょっと前位のやり取りのサマリです。メールと対面でのインタビュー形式だったのですが、最後のほう、ちょっと投げやりになっていたような感じが今読み返しても覚えています。

何故ちょっと投げやりになったかは、末尾のP.S.で少しだけ触れています。

Q.オリジナリティという概念についてどう感じているか?

オリジナリティあふれるモノ・コトだと評されていても、自分にとってそれがどうなのかという受け手側としての趣向もあります。そして、オリジナリティあふれると一概に言われていても、それゆえに質及び内容が良いということとは別問題だと思っています。ようするに、他の誰かが良い評価を下したとしても、自分にとってはさほど良くないとか、またはその逆だとかというふうに、オリジナリティあふれると形容されるモノ・コトへの評価も含め、オリジナリティということ自体に受け手側の造詣や知識も関係してくるだろうなと思います。

Q.受け手側の造詣や知識と評価の結びつきとは?

これは、そのオリジナリティと形容され評されているものが、本当にオリジナリティという形容に値するのかな? ということが、世に溢れかえっている創作物や発信物の数からすると、分かりかねるということです。

また、人によって認識が異なるのはけっこう有り得ると思いますし。例えば、ある創作物を、誰かはその年の2月頃に初めて接したとし、且つ、それがその人にとって新鮮に映るものだとしたら、それはその人にとってオリジナリティの持つ側面からして、とても有意義な出会いだとは思います。

しかし、その創作物が、世にはあまり広く知れわたっていないけれど、実は、以前に他の誰かによって創られたものと非常に似ていることを、他の誰かは数年前から知っていたとします。となると、その創作物に対する双方の認識にはずれが生じると思うのですが…(まったくあり得ない話ではなく、非常に似通ったというレベルなら実際見聞したことは幾度となくあります)。

異なる認識という辺りは、自身が関わったかなり個人的範囲での検証なので、限定されている感は否めないと思うのですが、もしも、時間がかなり遡る時代にまで及ばせると、けっこうな数の文献などをあたっても、存在したはずの人の名前がどこにも記されていないってことも…まあ、無きにしも非ずでしょうし。

また、オリジナリティと対極にあると思われがちなパクリに関しても、或るパクリに偶然出会っても、それが或る創作物に対してのたった1つのパクリとは限らないことも、前述の例えでお分かりいただけると思います。
例えば、AさんがBさんの作品をパクった。だけど、Bさんの作品も実はCさんという人のパクリだった、と、端的な一例を挙げるとこういうこと等ですが。

ただし、オリジナリティだと*評されている*ものに対し、他の誰かがインスパイアされ、そこに新たな息吹を注ぎ込むようなことは、結果次第ではパクリではないと思っています。これは、もともとオリジナリティと評されていた創作物でも、やはり何かしら外からの影響を受けてのものだというケースがほとんどだと思うからです。単に、認知的無意識下に存在していたのが、何かの拍子にということも、ままあることではないかなと思いますし。

以上のような関連性を踏まえると、モノやコトが多種多彩に溢れている現代社会においては、少し言い方は変なのですが、受け手側にも見極めたり感じたりするオリジナリティが必要とされるかもしれないな、とも思ったりします。

Q.受け手にもオリジナリティが必要かも知れないというのは?

1つは、現在の情報社会の中では、仕掛けだとしても、自然発生的なものだとしても、前評判や話題性を伴ったモノ・コトにふれる機会というのは数多くあると思うのです。が、まるで前評判をそのままコピーしたような感覚で、そのものに対しての評価をし情報の渦にさらされるのは、まあ、仕方ないとしても、キャッチする段階でも、キャッチしたその後に至っても、評価が他人のコピーのまま、っていうので満足感があるのかな、ということだったりします。勿論、受け手側の人が自分のフィルタを通しても尚そうであれば、それは良いと思うのですが。

やはり、キャッチする段階から何だかわけも分からないユーザに支えられるより、たとえ前評判や仕掛けによって心が動いたとしても、結果的に商品やサービスの判断をユーザ個々の素直な判断や感覚でしてくれたほうが、モノ・コトにも未来があるのでは、ということだったりします。

Q.ここまでの話だとオリジナリティというのは曖昧だと?

時空に存在する(した)累積の全てを知り得ないという意味では曖昧だとは思います。また、仮に時空の範囲を限定したとしても、その存在が明らかなものとそうではないもの、平たく言えば運良く世に伝達されるところまで漕ぎ着けられたものとそうではないものが存在するのであれば、やはり、確固たるオリジナリティの定義が設けられるのかどうかということについては、曖昧性がつきまとうのではないかと…。それに、現実的には、世に出ていても、世にでていなくても、知り得ないモノ・コトの数のほうが多いでしょうし。

オリジナリティーが意味する独創性というのは、今までに全く影も形もなかったということではなく、今までの存在や価値等などを組み合わせて、何か新しい機能や情報を付加していく事でもあるということを、ここでは前提にさせていただくと、

ユーザの立場では、何もかもが新しければ満足する、とは限らないのでは? と。これは、組み合わせのチョイスや付加する視点に関する事です。
何か新しい機能や情報をユーザに提供していく場合、提供側にありがちなこととして、経験を重ねるごとに組み合わせる要素や知識が増すので、普通は比例して付加させる何かも経験と知識に支えられ、それが進歩していくと思われがちです。ですが、ややもすると、経験と知識が増すごとに反比例してユーザが求めてる新しい何か、ということが付加できなくなりとりあえず表面だけNewっぽいものに、という落とし穴みたいのもあるので、それを如何にそうしないようにしていけるか? というデザイン的視点の洗い出し方を如何に…。

と、何か物足りなさが随分残るのですが、さわりということでは、こんなことなどもオリジナリティーを考察していくには、挟み込む余地があるのでは? と、思っていたりします。

Q.例えば?

要するに、組み合わせには足し引きが存在すると思うのですが、足し引きの要素には、経験や知識にアレンジを加えることの他に、世相や対象となる市場に存在すると思われる「変数」が不可欠だと思うので、それを如何に察知するかとか、「変数」のプライオリティをどのようにしていくか、等などが問われるのだろうな、とかでしょうか。

Q.オリジナリティの曖昧性が払拭されないとなると著作権は?

著作権…、文化的な創造物などに関する著作権は、著作権法というのがあるので、一見すると曖昧性が伴っていても、その著作権法のはかりにかければ曖昧性は払拭されると思われていたりもするかもしれません。ですが、著作権という定義では(文化的な著作権です、ここでの場合)、創作物の誕生の瞬間に著作権が発生するということですから、この創作がなされた時にという事自体、曖昧性を既に含んでいるのではないかと思うのです。

科学的な検証を用いて、どちらが(対象が2つの場合)早期に創作されたのかが判明するケースもあるでしょうけれど、それにしたって、そこでは2つ以外にもどこかしらに存在するかもしれないモノは、申請されていなければ含まれていないことになりますから…。

個人的な考えで言いますと、著作権を得る為に創作の行為をしているわけではないでしょうから、とりあえずはホントにその創作したものが、所謂よく言われるところの「〜らしさ」というより「〜ならでは」というようなものに、なんてふうには思っていたりします。けど、「〜ならでは」も、結局はその創作者、およびその創作物に価値を見出した人の知り得た範囲の中での見識に依るところがほとんどだから、その辺りにも曖昧性はあるのでしょうけれど…。でも、きりないですからね、袋小路に陥る種にもなりますし、こういう点に拘り過ぎると。

Q.では何のための著作権なのか?

さあ…よく分かりませんが色々じゃないでしょうか。工業所有権に括られる特許権や実用新案権、意匠権とかなら、営利的な目的の比重が著作権よりも多いようにも思えますが、文化的な著作権でも関わる人によっても営利的意識のレベルは違うのだろうし…。

Q.関わる人によるとか、営利的意識のレベルの違いというのは?

例えば、一概に著作物といっても、単独作業でのものと、共同作業によるものとがあります。共同作業の場合だと、結合著作物といって一般的には著作権も分散されるので、著作権に与えらている「複製権」や「公衆送信権」など、それらを行使でき、且つ、権利によって得られる利益が発生するような場合に絡む契約時に、レートを目一杯に設定したがるようなかけひきに拘る人と、まあ妥当かな、というようなラインで収める人とか、その辺りに違いが出るケースも時としてあるので、ということなどです。

その他には、制作作業時における外部委託などの場合の、著作権の所在に関わる契約などでも、著作者人格権は譲渡の範囲外だったりするのですが、公表権に限っては譲渡も可能なので、それは譲渡して欲しいとか、まあ、何をどこまで行使したり、要求したりするのか、その手合いのことを、関わる立場による、営利的意識のレベルの違いというふうにここでは表しました。

まあでも、所詮は人間が様々な思惑で作った仕組みでしょうからね。著作権なんて。
その思惑絡みの側面のいくつかを知ってバカバカしいと思う人もいれば、思惑の枠組みから形成されてきた権利を営利的に優位に利用したいっていう人もいるでしょうから、その辺りからしても意識の相違はあるのでは? と思えたりもしますから。

P.S. March 9, 2011

上述のやり取りから時間はそこそこ経過していますが、オリジナリティという事柄には曖昧性がつきまとうだろうな、という想いにはさほど変わりはないです。
が、曖昧性がつきまとう*かも*しれないけれど、オリジナリティっぽさみたいな魅力を否定しているわけではありません。「オリジナリティ」イコール「独創性」という雰囲気を漂わせてくれるモノ・コトにふれるのはわりと好きなほうです。何で好きなのだろうとか、魅力を感じてしまうのだろうか、という明確な理由がなかったとしても、*自分の中の感性が反応するのを発見できるような感じ*が好きなのかもしれません。

まぁそれでも、分析などをすれば何故なのかくらいの見当はつくとは思いますが、分析した結果を基に好きだとか嫌いだとかの材料にしていくのも味気ないなぁとも思いますし…。
極端なところ近辺まで行くと、なんか、あざとそうな一部の人たちの思惑によって形成された枠組みがある世界に生まれて来てそれに沿うように生きていく事自体バカバカしいとか、人間が偉そうに(少なくともこの地球上の生物の中で一番優れているかのような)人間様振りを発揮している有様が滑稽且つバカバカしいとか、そんふうな想いにもなるので、適当なラインでお茶を濁してるというのが正直なところかもしれませんが…。